うちの息子は中学の野球部に所属しています。
そんなに上手ではないですが、まったくの運動音痴だった小学生の頃を考えると、
親からしてみれば野球部に所属していること自体が奇跡です😃

そんなうちの息子。
本当にびっくりするくらいいろんなことに無頓着で、
平均的な中学男子よりも私生活はぐちゃぐちゃ。
いつもお母さんに怒られています😋

そんな彼ですが、先日、足を痛めました。
彼にとっては無頓着の延長上の話なのかもしれませんが、
足に痛みを感じていても誰にも何も言わないんです。
後でお医者さんに診てもらったら筋肉の炎症を起こしているとかで、
けっこう痛かったはずなんですけどね。

親にも言わないくらいなので当然監督にも言わない。
周りの友達にも言わない。
ただ、やはり痛みはあるので練習中に足を引きずり出しました。
それでやっと周囲の人から「おい、あいつの走り方、なんかおかしいぞ」と気づかれる始末。

親からすると、これまでの彼の様子から判断するに決して意地だけで頑張っているわけではないと思います。
そんなスポ根の持ち主ではないことはわかっているので無頓着もここまできたら大したもんだ、
彼っぽいなあ、とニヤニヤせざるを得ませんでした😉

先日練習を見に行った時のことです。
練習終わりに監督が話しかけてきてくれました。

「息子さん、足が痛いと一言も言わないんです。
あそこが痛くて練習ができないと弱音を吐く子が多い中、
痛みに耐えて練習を頑張るところは本当に男気があって素晴らしいことだと思います。」

と監督に言ってもらいました。

もちろん、気にかけてもらえて嬉しいという思いもありましたが、
痛みをこらえるのが良いこと?痛いと訴えることが悪いこと?

うーん、親としては素直に喜べない監督の言葉でした🙄

息子のケガもそうですが、こういう弱音を吐けないというのは会社でもありますよね。

弱音を吐くことが悪いこと。
頑張ることが無条件で良いこと。

そうやって外に対して発信できず、正しくないことでもやらないといけなくなる。
やっても意味がない、あるいはできないとわかっているのにそう言えないから、
なんとなく時間をやり過ごそうとする。

無駄であり、無意味ですよね。

なんとなく日本の場合、頑張って得た成果ではないと認めない、
というような文化があると思います。

なんというか、低い生産性で出した成果こそが美徳である、というか。

生産性とは、どれだけの入力でどれだけの出力を出したか、ということです。

つまり、入力(努力、時間、お金など)が小さければ小さいほど、
そして出力(儲け、対価など)が大きければ大きいほど良くなります。

この生産性の概念で考えると、
頑張ろうが頑張らまいが、
時間をかけようがかけまいが、
同じ成果が得られるのであれば入力は小さいほど良い。

できるだけ少ない入力でできるだけたくさんの出力が得られることが
高生産性につながります。

ですが日本の社会は出力よりも入力を求められます。
しかも量だけじゃなく、質も求められることが多い。

たくさん頑張る、たくさん時間をかけるのは当たり前。
そしてどういう時間をかけるかまで評価される。

家族を犠牲にして費やす時間は価値が高く、
そうでない場合は価値が低い、みたいな感じです。

とにかく、大きな犠牲を払えば払うほど、
いや、犠牲を払いさえすれば出力の中身や量はそれほど評価されません。

だから、何かしらの宿題に対して時間をかけることが求められる。

時間をかけなくても良い提案はできるもんです。
ってか、時間をかけさえすれば良い提案ができるわけでもないのに、
とにかく時間切れまで検討させられる。

もうちょっとだなぁ、とか、
何か足りないなあ、とか。

何が足りないのか言わないくせに、とにかく時間切れまで考えさせる。

そして、時間切れになって偉いさんに報告したら、
それ以上は追及されない。

まだ中身は煮詰まっていない(はず)なのに、
もうそれ以上追及されないことがほとんどです。

結局、中身はどうでもいいんですよね。

どれだけ頑張ったか、どれだけ時間をかけたかが大切であり、
それさえできれば出力はどうでもいいんです。

そりゃ、生産性が低いと言われても仕方がないです。

監督としては本当に弱音を吐いているだけなのか、
それとも本気で痛がっているのに我慢しているのか、
というのは慎重に判断してもらいたいと思うと同時に、
世の中の偉いさんにもそういう姿勢で仕事に臨んでもらいたいと
足をひきずる息子を心配しながら思う父でした。